昭和45年6月11日 夜の御理解
一般では、我情我欲の、おー、生活、そういう生活が人間らしい生き方とか、人間らしい生活だとかというふうに、ま、言われますよね。なるほどそりゃ人間らしい生き方ですけれども、信心はどこまでも、おー、人間らしい生き方ではなくてどこまでも、おー、真の、おー、人間らしい生き方をするということですから、真の人間の生き方というのは、もう、うん、即神様の生き方と同じ事です。真の人間っていうのは、我情我欲を取ったその姿が真の人間ですから、その、真の人間に私共がいつの間にか知らず知らずに自分の思いとか自分の欲とかというものが、あー、伴って、あのー、おー、我情我欲のかたまりではないことになる、それを人間らしい生き方だということが言えます。
だから信心では、そこんところをね、一つ、いよいよ(真に?)生まれながらの、おー、真の人、真の人間に返るということが、そういう生き方ですから、まあ人間らしくない、いうならまあ、神様らしゅうと思うていく生き方、そういう生き方こそね、馬鹿と阿呆での生き方という生き方、そういう生き方が、いよいよ、ほん、真の人間の、おー、らしい生き方になるわけですね。
一般で言う、我情我欲を言う事が、人間だからとか、人間らしい、かえって人間らしゅう生きるという事を申しますけども、信心させていただいたら、ともかく、そこんところを、真の人間らしゅう生きるという事、真の人間とは、生まれた時、我情もなからなければ我欲もない、もう本当に神の氏子としての、おー、人間、それを真の人間、真の(?)ですから、そこを目指していくところにね、えー、本当に神様の、おー、願いの世界というですかね、私共が、あー、本当に幸せな、あー、世界ですけれども、おかげを頂いて、人間らしい生き方ではなくて、えー、ね、真の人間らしい生き方をさせて頂こうところに信心はあると思うね。
どうぞ。